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私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。   目標:福音を日常的に伝える。 祈りを呼吸のように行う。 聖書の御言葉を生活の中に生かす

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イエス・キリスト企救エクレシア

ようこそ、 
 イエス・キリスト企救エクレシア
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+ 2019年4月21日 イースター記念礼拝:「新しい人生」 (クリック、メッセンジャー紹介)
 本日は、日本基督教団深沢教会より田代先生をお招きしみ言葉をとりついでいただきました。この素晴らしいメッセージをどうぞお聞きください。
   
+コリント人への手紙U5章17〜18節←(クリックしてみ言葉を見る)

17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 18  しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。

 



2019年4月7日特別賛美: 「Amazing Grace」


BB.Oh!Sun'z+モモちゃん
(イースターカードのモデル羊のモモちゃんと共演)

モモちゃんの

メーメーと鳴く声が何故か

アーメン!に聞こえるのは

気のせいでしょうか?

 

 

 

 

+ 2019年3月24日 特別伝道礼拝:「石の心、肉の心」←(クリック、要旨を見る)
 企救エクレシアに遣わされて3年、本日が最後のメッセージとなりますが、本当に「アッ」という間の楽しい3年間でした。これも企救の皆さんのお祈りとお支えがあったからだと、改めて感謝の思いでいっぱいです。本日は、私自身が現在取り組み知らされていますことを、与えられた御言葉から語らせていただきます。  本日の説教題である「石の心、肉の心」は、旧約聖書のエゼキエル書に記されている言葉です。「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から石の心を除いて、肉の心を与える」(36章26節)と書かれていますように、「石の心」とは冷たく頑なな心であり、「肉の心」は血の通った温かく柔和な心です。  私自身をこの御言葉に照らしてみる時、私自身が石の心の持ち主だということを知らされます。何もない時は柔和な心の持ち主のようにしていても、いったん自分に不都合なことが起こったり、自分に責任が問われるようなことが起こると、途端に石の心になって、反射的ともいえるほどに自己弁解したり、責任転嫁したりしてしまうのが、私の偽らざる実体だということです。パウロはそのような自分のことを「わたしは罪人のかしらです」と告白しています。 しかし多くの人は、自分は石の心など持っていないと思っています。ヤコブは、そのような人々に対して、本日の聖書の箇所で次のように言っています。「心に植え付けられている御言葉を素直に受け入れなさい。御言葉にはあなたがたの魂を救う力がある。そして御言葉を行う人になりなさい。おのれをあざむいて、ただ聞くだけの者となってはいけない」(1章21、22節)と。私たちは聖書の御言葉を素直に受け入れて、それを徹底的に行ってみる時、自分自身がいかに罪深い者であるかということを知らされます。 イエス様は、ご自分がこの世に来た目的を次のように言われました。「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9章13節)と。イエス様は、すぐに自己弁解したり、責任転嫁してしまうような石の心の持ち主である罪深い者ために、この世に来たと言われているのです。 私は長年、学校の教師として教える立場に立ち、また教会でも指導的立場に立ってきました。その中でいつも問われていますことは、同じヤコブの手紙3章に記されています御言葉です。「あなたがたのうちの多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が他の人たちよりも、もっと厳しいさばきを受けるからである」(3章1節)という言葉です。私はこの御言葉を思い起こすたびに、人を教え導く前に、まず私自身が御言葉の前に謙遜に立ち、その御言葉を素直に受け入れ、聴き従っているかを問われます。すべてが、まず私からなのだと・・。 企救エクレシアの皆さんも、おひとりおひとりに与えられた御言葉を素直に受け入れ、その御言葉に聴き従っていってください。そのことによって、本日の聖書の箇所の最後に「こういう人は、その行いによって祝福される(新共同訳では、幸せになります)」(25節)と記されていますように、多くの祝福が与えられ、幸せになられることを確信しています。
   
+ヤコブの手紙1章19〜25節←(クリックしてみ言葉を見る)

19 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。 20  人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。 21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。 22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。 23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。 24  彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。 25  これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

 



+ 2019年2月24日 メモリアル記念礼拝:「いのち」←(クリックして要旨を見る)
父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました 干し柿、もちも美味しゅうございました 敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました ・ ・ 父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません 何卒、お許し下さい 気が安まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません 幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました 上記の文は、前回の東京オリンピックのマラソン競技で国立競技場に唯一、日の丸を掲げた円谷幸吉選手の遺書です。27歳の若さでの死でした。当時、同じ長距離ランナーであった私は、この出来事に大きな衝撃を受けました。私は、その時このことを通して「いのち」の意味について、深く考えさせられたことを思い出します。 聖書では、この「いのち」について「プシュケー」(肉体上の眼に見える命)と「ゾーエー」(肉体を超えた本質的な命)について記しています。私たちの肉体的な命は、どんな人であってもやがて朽ち果ててなくなってしまいます。私たちは誰もが死を前にした時、言い知れない恐怖感を抱き無力になります。私たちは一生涯死の奴隷となっていると言っても過言ではないのです。 イエス様がこの地に来てくださった最も大きな目的は、この死の奴隷となっている私たちを解放するためでした。約2000ページに及ぶ聖書の中で、最も中心的な箇所とされるのが、ヨハネによる福音書3章16節の御言葉「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」です。イエス様は十字架にかかって、肉体の命(プシュケー)を終えられ、三日目によみがえって死に勝利され、私たちに永遠の命(ゾーエ―)に入る道を開き、死の奴隷とされている状態から私たちを解放して下さいました。イエス様は、十字架の死と復活を通して、私たちに「もうひとつのいのち」ゾーエ―(永遠の命)があることを示して下さったのです。 本日は召天者メモリアル礼拝です。先に天に召された、愛する兄弟姉妹を覚えて、その生きざまを思い起こし、私たちもそのみ跡を継ぐ思いを新たにする時です。「人は、たとえ全世界を手に入れても、まことのいのちを失ったら、何の得がありましょう」(16:26)と、本日の聖書の箇所に記されていましたように、私たちがこの地でどんなに地位や名声や富を得たとしても、まことのいのちである「永遠の命」を失ってしまったとしたら、私たちの人生はむなしく空虚なものとなってしまうのです。私たちもイエス様を信じる思いを新たにし、先に天に召された兄姉のあとに続く者となりましょう。
   
+マタイによる福音書16章21〜28節←(クリックしてみ言葉を見る)

21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。 23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。 24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。 26  たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。 27  人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。 28  よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

 



+ 2018年1月28日特別伝道礼拝:「雄々しくあれ」←(クリックして要旨を見る)
   

今日、企救エクレシア週報の表紙の写真スペイン、バルセロナ「サクラダファミリア大聖堂」を見てびっくりしました。実は羽田空港に向かうタクシーの中で運転手さんとサクラダファミリアの事を話していたからです。 サクラダファミリアの意味は、神の家族「イエス様、その父ヨセフ、母マリア」を示す言葉でありそれは、神の家族であるクリスチャンを象徴しているのだと思います。さて私は2012〜2015年の間、ドイツのケルンという町で日本語教会の牧師をしていました。その貴重で宝ともいえる出来事を皆さんと分かちあいたいと思います。

 その前にドイツの教会のシステムについて少しお話したいと思います。日本の教会は献金や寄付によって経済的なものを補っていますが、ドイツでは、国が教会の為の税金を国民から徴収しそれを各教会に割り当てています。つまり、経済的には国が教会を運営しているともいえます。
しかし、近年、教会税の集まりが悪くなり、日本語教会の援助が打ち切られてしまいました。それも、私が赴任する年にです。グッド(バット)なタイミングです。(笑)

 私は、そのことを承知で「何とかなるさ〜」くらいの感覚でドイツに赴いたのですが、当のケルンの教会員たちはそうではなかったようで、これからの教会運営について大きな不安をもっていて、教会員の心をバラバラに引き裂いていました。そのうえ冬のドイツは薄暗く太陽の出ない日が続き、また私を追い出そうとする様々な働きを受け、さすがの食いしん坊な私も食事も喉を通らない日々が続き、ついには鬱(うつ)になってしまいました。

そんな時に、スペインのバルセロナの教会での奉仕の仕事の依頼が来ました。この時、私は体調不良を理由に断りました。しかし、その教会のお世話役の女性が、「先生!そんな時だからこそ、是非バルセロナに来てください。きっと元気になりますから。」と言って、しきりに勧められるので、その奉仕を引き受けることにしました。そして距離にして1200Km、飛行機で2時間かけて空港に降りた瞬間、その理由を知りました。太陽はサンサンと輝き、どこまでも続く青空、薄暗いケルンの空とは大違いです。バルセロナの教会の兄弟姉妹との交わりや奉仕のなかで、大事な何かを主は与えてくださいました。私は、それまで自分で何かをしようとジタバタしていました。自分で何かをすることを主が支えて下さることは確かです。しかし、「本当に苦しい時、人や被造物の力ではどうしようもない時に、解決できるのは主のみである」ということです。それからひと月、余計なすべての動きをやめて、主におまかせしてひたすら祈りました。すぐには解決しては頂けませんでしたが、主は一歩一歩、私自身とケルンの兄弟姉妹たち一人ひとりに働いて下さり、教会を一つの家族として下さいました。主は、必要な時に必要なものを必要な分だけ、確実に与えて下さいました。決して多過ぎず、不足なく丁度よく、ケルンの教会にその恵みを与えて下さったのです。ハレルヤ!!

今日の御言葉の締めくくりの部分を、共にわかちあいましょう。
待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(詩篇27:14)  主は、「何をクヨクヨしている。今すぐ元気になれ(怒)!」というような御方ではありません。最高のタイミングで必要(私たちが気づかないでいる必要まで)を満たして下さるのです。私たちは、どんなに健康で力強く見える時でも自分の力で雄々しくなることも、心を強くすることもできません。
ただ、主のみがそれを可能とされるのです。アーメン!!  

 
+詩篇27篇←(クリックしてみ言葉を見る)

【ダビデの詩。】1 主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。 2 さいなむ者が迫り/わたしの肉を食い尽くそうとするが/わたしを苦しめるその敵こそ、かえって/よろめき倒れるであろう。 3 彼らがわたしに対して陣を敷いても/わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても/わたしには確信がある。4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。 5 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ/幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ 6 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ/主に向かって賛美の歌をうたう。 7 主よ、呼び求めるわたしの声を聞き/憐れんで、わたしに答えてください。 8 心よ、主はお前に言われる/「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。 9 御顔を隠すことなく、怒ることなく/あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください/見捨てないでください。 10 父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。11 主よ、あなたの道を示し/平らな道に導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。 12 貪欲な敵にわたしを渡さないでください。偽りの証人、不法を言い広める者が/わたしに逆らって立ちました。 13 わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。 14 主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。

 


「2018年1月28日特別賛美」


Elisha.jp

主の愛が今

 

 

 

 

 

「2017Easter Gospel Concert」by Manna

 

manna(マナ)プロフィール
 師家庭に生まれ、幼少期より讃美歌などの音楽に囲まれて育つ。 四歳時よりクラシックピアノ教育を受ける。 高校時にピアノに加え、声楽を学ぶ。幼い子どもから人生の先輩まであらゆる年齢層、様々な境遇の一人々が一つとなり賛美をするゴスペルを学び、歌い続けている

 

 

 

 

NEWSお知らせ

2017年10月29日
毎年恒例の教会リサイクルバザーを開催いたしました。多くの近隣の人に来て頂き感謝です。また、沢山の方に喜んで、頂いたことは主の恵みでした。主に感謝いたします。アーメン!!

    


「会堂建築10周年記念チャペルコンサート」


原田和代(Vo)  小櫻真実(P)

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